連休明けに動画を録ろうと思っていましたが何だかバタバタとしてブログの更新も撮影も出来ずじまい。

更新も動画も頼まれたわけでもなく勝手にこうしようと「思っているだけ」なのに、出来なかったりすると何だかガッカリしたり反省したり。

そう「思い」は面白い。

 

「どうすれば思うように弾けますか?」「……と思っています。」「……と思えば(考えれば)いいですね。」

は教室でも良く耳にする言葉。

 

僕は思う「思い」そのものには何の形も効力も無い。

人に託すものではないし、価値を高めるものでもない、目指す結論でもない。
「思う」そのものには何の優位性も無い。あると言うのでしたらそれは錯覚です。

2016年に出版された本で「サピエンス全史」という本がある。
音楽とは関係はありませんが一読お勧めしたい本でもあります。

かいつまんで話せば(ホモ)サピエンスが発生から後、
その備わっていた認知能力を如何に発展させることにより現在へ至ったかという考察した本。

 

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“私たち現生人類につながるホモ・サピエンスは、20万年前、東アフリカに出現した。その頃にはすでに他の人類種もいたのだが、なぜか私たちの祖先だけが生き延びて食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いた。40歳のイスラエル人歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は、この謎を三つの重要な革命──認知革命・農業革命・科学革命──を軸に解き明かす。

たとえば、サピエンス躍進の起点となった認知革命はおよそ7万年前に起きた。原因は遺伝子の突然変異らしいが、サピエンスは柔軟な言語をもって集団で行動できるようになり、先行する他の人類種や獰猛な動物たちを追い払った。この認知革命によって獲得した〈虚構、すなわち架空の事物について語る〉能力は神話を生み、大勢で協力することを可能にした。後に国家、法律、貨幣、宗教といった〈想像上の秩序〉が成立するのもここに起因している。”
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「思う~思考する」を少し掘り下げてみよう。
味覚、触覚、嗅覚、聴覚、視覚の五感は多くの生物が持っている。
五感に意識というものも加えれば仏教で言うところの「六根」になる。
仏教哲学の秀逸なところは五感と意識を並列に扱えること事を前提としている所。

「サピエンス全史」を読んでいると著者が多岐に渡る知識を持っている事はわかるが特に驚くのは「意識」に関して信仰としてではなく哲学的な意味で仏教的な視点の理解があり
その視点により論を構築しているところだと思う。

 

意識の中の機能の一つが「思う・思考する」である、これはホモ・サピエンスが重用する能力であるといえる。
それが「無いものを創造する力」とつながっている。だから人間の社会では創造する能力が重宝がられるし「考える」事をいい事だと思っている事が多い。

同時に「思考」的なアプローチの優位性に偏る事により他の「五感」をその支配下に置いてしまう傾向もある、
思考の働きとしてはラベリングという機能もある、認識にラベルを貼り分類をしていく能力。
メリットもあるがデメリットは貼ったラベルを見る事をそのものと思い込んでしまい情報の欠落や実際との誤差を招くこと。しかしこれは別のお話なので又の機会に。

 

「思い」は人間が獲得した機能であり人間に付随する能力である。
「思い」をどう扱うかで人類史は進んできた。

何だか知らないけどそう思ったからやっちゃったの歴史。

「思い」を足がかりに様々な行動を起こしてきた歴史。
失敗したと思ったら又別の「思い」でああでもないこうでもない。

そんな僕らの持つ「思い」ですのでその機能が真価を発揮するのは何かがスタートするきっかけになったときだと僕は言い切ろう。
「思い」をゴールに設定することは能力の上手ではない取り扱いとも言い切ろう。

科学的であるということも同じだと思う。
論理が更新可能だからこそ物事を追求することが出来る。
科学的であるというのはその検証の手法を定義することから始まっている。

多様な思考の取り扱いを見つけるために学校では様々な教科に触れさせてもらえる。
既に備わっている思考方法に合う教科を好むのも選択だし、その教科に合わせて必要な思考の使い方を発見するのも面白い。
物事に取り組むとそれを発見せざるを得ないときもある。
「考え」とは道具だから。

 

「思い(又は考え)」は何かのひっかかり、それはとても個人的な事柄。
その時々の「思い」を足場にしながらそれぞれが進んで行く。ああでもない、こうでもない。

「思い」があって教室が始まり、「思いが」あって教室に通って、また別の「思い」が沸いて辞めていくように思える。
しかしながら大切な事は「思い」ではない所にある。「思い」は機能に過ぎないのだから。

 

「思い」に突き動かされたり「思い」を眺め振り回されなくなったり・・・段々と扱いを覚えてきた個人史と人類史の相似形が面白い。
「思い」を形にするには「思い」より大きい存在にならないと「思い」に負けちゃったりするかもね。
「思い」を足場にしながら「思い」を超えて存在する世界を見てみよう!!

きっと思いのほか面白い!!!

 

……勢いに任せてあれこれ訳が分からぬような事を書いてみたが、何にせよ既にそれぞれが自分の足場を進んで行っている、その中で日々出会えていることはとてもとても嬉しいし尊敬して大切にしているつもりだ。
また時期が来て別の場所に向かっていく人も喜んで見送ろうと思うし又交わる事があれば宜しくと思う。

 

最後ははそんな感じのメッセージをあの人とこの人に送ってまとめたいと思う。

 

 

今日のブログ記事は来ている人にブログのお題頂戴といったら
「サピエンス全史」とのお返事がきっかけ。
それをスタートにやってみました。
どうしても内容だけに文章が硬くなっちゃう、思考が散らかりすぎだね。
段々、こなれていけば単純に表せるかな~????