以前、雑巾の縫い方を教える教室と言われたことがある。

考えてもしなかったその例えに上手い事を言うなぁと感心した。

今のところ教室は教室を纏ってくれている皆さんの輝きを増すような
役割を担おうとしていない。
皆さんのプロフィールや履歴を飾るものにはなっていないだろう。
皆さんに付け足せるものは何もない。
何かをぬぐったり、拭き取ったりして既にある価値や美しさを
発揮してもらう雑巾の役割が近い。
また、そういった役割を担える人が増えればと思っている。
そういった意味で雑巾の縫い方を教えているのだと思う。

教室に来られている方々は上等な生地の素晴らしさも
雑巾の必要性もそれぞれに価値がある事を知っているようだ。
そのせいか年齢、性別に関係なく興味深い人が多い。

面白い人が多いのでレッスンをしているだけでは勿体ない。
様々なありようを楽しませてもらっている。
だからかレッスン時間の内外で様々な雑談が生じる。

それはレッスンの間の一週間の出来事だったり
今作っている創作物や見聞きした作品についてだったり
音楽や他の活動の事だったり話は多種多様で様々な模様を描いている。
そんな日常的なたわいもない話を枕にしながら
時にすっと会話の重心が下がっていく事がある。

その中には漠然としたものもあるし具体的な事もある。

漠然としていても具体的であっても
現状から予測されることかもしれないが
いま実現・実行している事ではない話しだけど重要な事。
いま実現・実行できていないから重要になっちゃう事は
人を悩ませる。

こうしたい、こうなりたい、や
こうしていて欲しい、こうなって欲しい、
こうしたいが分からない、こうなりたいが無いという
話になってくる。

話を進めていくうちにそういった願望が
やがて問いに変っていくことがある。

何故なれないのだろう?
何故そうしないのだろう?
何故そうしなければならないのだろう?
……

願望に対になる言葉は無い。
あえて言えば絶望か?
望んで満たされなければ絶望しかない。
願望がかなっても満足になるとは限らない。
かなりの博打だ。

それではせっかくの願望が勿体ない。

問いには答えがある。
答えは別の問いを連れてくる
そうやって洗練され簡単には見つからない問いとなっていく。
簡単には見つからない問いにはなんだか普遍性の高い答えが付いてくる。

問いを持とう
たわいもない質問のための問いなどではなく
誰かをどうしたいとかではなく
自分から自分に向けた問いを見つけよう

何がしか得た答えは切り捨てるものが多い方法かもしれない
その一旦つかんだ答えを眺めているうちに
切り捨てていたものをより内包できる問いを見つけるかもしれない。
そうなれれば幸いだ。
切り捨てるものが多いより
内包できるものが多い方が豊かだ。

何故そうなれないのだろう
何故そうじゃないのだろう
何故こんなことを思いつくのだろう

何故かといえば
何故かと思えたおかげで
そうでない状況を想像し望むことに至れるから。
その願望や希望から問いへと進めば
答えにたどり着ける。

想像と問いと行動が伴っていれば
そんなに心配はない。いつか決着する。
つかんだ答えはゴールではない次の問いの種だ。
それって本当か???本当にそれで決着か????

そんなことを繰り返していて
気づいたら何かになっている。
ちゃんと自分も周りも気が付くような
何かになっている。

時に最初の想像や想定をはるかに超えた問いに至る人がいる。
それは日々小さな歩みの積み重ねの中で起こる。

雑巾も雑談もここの雑文も同じように
何かを美しくしていく中で役立てようとしてくれる人がいる。
そんな役割を見出してもらえて本当に光栄だ。