前の記事を書いた後に何故かヘッセのことを
書きたくなったので連続投稿。
多分、30代位までで一番読み返した作家はヘルマン・ヘッセだと思う。
高校生のときに出会ってから何度も色々な作品を読み返してきました。
何だか彼の作品を理解しなくてはいけない気がしてね。
経験を重ねていったからかその時期が来たからかは
分からないけどふと「読めた!」と思えたときの至福感。
ヘッセのこの作品が理解できる位には生きてこられたんだなぁ……
は僕の成長か深化か分からないけど何らかの基準にしていました。
ヘッセはご自身の葛藤やその時々の認識を昇華して
作品を作られてきたお方。
この方、詩人でもあるので言葉の使い方がもう凄いのです。
高橋研二さんの翻訳もいいのだけど。
使い方っていうと小手先のみたいに聞こえちゃうけど
身体感覚をもった生きた言葉、繊細に構築された
文章、ちょっとした言葉の違いで生み出す世界。
手持ちの本は全て人にあげてしまったので
引用のために検索すると名言をまとめてあるサイトは幾つもありました。
興味があれば調べてみてください。
でも、切り取られた言葉より
できれば作品で読んでください。
僕も言葉が表すものを考え言葉と出会うのは好きなのですが
昔々、
「向き合う……ってぶつかり合ったり格闘することではないな。
対象そのままって事だよな。
なら対象を変えようとしたり、(僕が思う)良い形にしようとしたりは
向き合うって事ではないんだな……。
では、人と向き合うとか
怪我と向き合うとか
作品と向き合うとか
自分と向き合うとか
ってどういうことなんだろう?
ならば、そこに介在する行為者としての「私」の役割とは……」
な~んて事を考えて言葉を捉えようとしていたことがありました。
まじめだね(笑)
きっとヘッセも同じようなことを
考えたりしていたんだろうな~
とか昔生きていた色んな人達が
同じようなことを考えて
自分の答えを見つけてきたんだよな~。
「私が人生を諦めて、自分一個の幸不幸などはどうでもよいと悟って以来、
少なくとも人生は、私にやさしくしてくれるようになった。」(ヘッセ)
「神が人に絶望を与えるのはその人を殺すためではなくて新しい生命を呼び起こすためで
孟子にも似た言葉があるようですね。
「天が重大な任務を人に与えようとするときは、
必ず、まずその人を苦しめ、その行動を失敗ばかりさせるようにする。
これは天が、その人の能力の欠けているところを満たすようにさせる試練である」
ヘッセは後に「シッダールタ」を上梓されるので
ご自身が生きるうえで東洋思想やインド哲学も研究され
たのは間違い無いと思いますが
人の言葉を右から左に使われることは無いかと思います。
「世界は改良されるために存在しているのではない。
君たちもまた改良されるために存在しているのではない。
君たちは、自分自身であるために存在しているのだ。
世界が君たちの存在の響きと音と影とだけ豊かさを増すために、
君たちは存在しているのだ。君自身であれ! そうすれば世界は豊かで美しい!
君が自分自身でなく、うそつきであり、卑怯者であれば、
世界は貧しく、改良を必要とするように思われる」(ヘッセ)
「自分自身に達するということ。 これが職人が目指す ただひとつの頂点なんだ。」(ヘッセ)
良い言葉ですね、でも……
こういった言葉や思想に感心したり触発されたり酔う
ことなんかどうでもよくてね
あぁでもない、こうでもないとひたすらに生きていて
ふと自分自身から言葉が放たれた瞬間に
がーっと繋がって、あっ「今、ヘッセと出会えた」
と言う感覚。これが大事。
これは音楽でもありますし
様々な事柄でこんな感覚ありますよね。
そういったことで連綿と続いているものの
延長線上に自分があるのだなと感じることがあります。
先の引用のようにヘッセもある瞬間に孟子の言葉と繋がったのだと思う。
これは知っていたかどうかとかは無関係な話。
同じ認知の地平に立ったので同じ言葉・現象が現れたということ。
それが繋がるってこと。
「ほんとうに出会った者に別れは来ない
あなたはまだそこにいる」
(谷川俊太郎 「あなたはそこに」より抜粋)
きちんとした出会いが生じることでお互いが
不可分の存在として認識していくことが出来ます。