最近は年始からレッスンやら決算やら絵本作りやらを
こなしてきて少々過密な時間の使い方に
慣れてきた体に少し空き時間が出来て
SF的な設定の物語を少し書き出して頭の中で繰り広げたり
(作品にはするつもりは無し)
あちらこちらから色々と与えられる刺激を楽しんでいたりする。

いつも1か月前の想像とは違う瞬間を生きている。

誰しも最善を選んで生きていると思っている
とここの記事で頻繁に書いている気がする。

その最善は一つの世界を構築している、
理屈の通った完璧な世界だ。

その世界が内包していない物、
切り捨てているものが多いほど
単純な論理で世界が構築できる。

ある意味、正当性(押し・圧)は強くなる。

単純な理屈で正当性(押し・圧)が強く、
そこに情や共感・連帯などが
持ち込まれ走り出すと
内包していないもの、切り捨てているもの
の量だけおかしな方に向かっていく。
こういう時に肌感覚で立ち止まる事は大切だと思う。
ダイナミズムは人を酔わせる。

僕も常に最善を選択して生きている
多分、僕の場合は安心と自由の選択があったら
自由を選んできたと思う。
それが正しい、間違いというよりそういう精神的な傾向が
あるというだけの話。
人それぞれに道がある。

自由を選んだ結果、ものすごい不自由を強いられる時もある。
八方塞がりを感じたこともある。
精神的にも機能的にもフリーズしたこともある。
でもそこを観察していくとちゃんと隙間があることに
気づく。
(自由を安心、不自由を不安とどのように読み替えても同じこと)

まだ選んだことのない選択・可能性があることに気づく
どうにか頑張ってそこに入っていく。

どんな時も観察して、選択を見つけて、それを行う自由がある。
それを行ったときに現れる世界は少しづつ変わってくる。
主客を逆にすると世界が僕を見つめる目が変わってくる。
その自由を見つけた時にそこに安心もついてきた。
だから飽きることなく同じことができるようになった
毎日、同じ場所に居ることが不自由でなくなった。
同じ動作はなく同じ場所に居ても毎日違う場所だ。

ギターの演奏もそう、、
指を少し動かす中に物凄く選択の可能性がある。
成長していくとは分解能が上がっていく事、
動作の観点(感受する量)が増えていく事だとも言える。
そういった事の発見と実践の中で現れてくるものが変わってくる、
これも主客を入れ替えれば音楽が僕の耳元でささやいて
日々多くを語ってくれ与えてくれると感じている。
自分が音楽を使って語るのではなく
音楽が僕を通して語ってくれる。

僕の内外に世界はいつも多種多様なものを語りかけ見せてくれる。
その表現を味わっているだけで充分だ。
ありがたいね。