中々物事が上手くいかないことがある。
あれこれ悩んでも解決しないことも多々ある。
ギターの弾き方でも、音楽の奏で方でも、
声の出し方でも、生活の中の諸般のことでも。

そういうときに頭に描く理想の姿や
素晴らしいものはきっと間違い無いのだと思う。

その理想に行くにはきっとこの方法しかないとか
あるべき姿を求めていくと手詰まりを感じるときがあります。

面白いもので出来ないときは出来なくて
出来るようになると出来ないということが出来なくなる
ようになっています。

出来ていないときにあれこれ考えていることは
あくまで想定というものです。
とりあえずその想定を進んでいくしかないのも
やむを得ません。

いま想定していいるものなんてそんなものだと理解しながら扱いつつ
真摯に観察しながら進んでいき少しずつ想定をズラして
いくことが大切です。

そうしていくうちにきっと理想的な状況が現れる
いい道筋が見えてきます。

何事も大変なときは大変ですが報われるときは見事に一瞬です。
出来るようになったら出来ますし分かったら分かります。
出来なくても分からなくてもなんの問題もありません。
そういったことが考えたり試行したり歩みを進める原動力になってくれます。
物事が分からなくて良かったねと自分に言える日が来るかもしれません。

分かっていることに結論を当てはめていくより
分からないに向かっていったときに得られる実りは
常に味わったことのない喜びがあると思います。

そういえば味覚の幅が人の幅といっていた人がいました。
確かにそう言えるかもしれません。

人を説得しようとしたり理解を求めたいときは大抵
自分の想定と現実の間にギャップがある状況になっています。
その想定を無理に押し切ろうとしたり一定のルールで
構築された枠組みをつくっていくことで強制力を持とうとしていきます。
そういった事が行われているのを往々にして見かけます。
それ自体に好悪はありませんのでそうした方が焦点がしぼれて
良いときはそのようにしていくのがよいと思います。
その選択しか選べない私がいる時はそれに気がつくのが大切です。

どんなときでも相手や状況そのものを変化させることではなく
自分に向かっていくことを選ぶことが出来ます。
そうして様々な選択の可能性を経験していっていただきたいです。

自らが様々な選択を経ていくほどにまだ見ぬ様々な選択をも楽しめるようになります。
他者のベストではなく自らのより良さに向かって少しずつずれていきましょう。

どんな果実もそこに向かったものしか味わえないのはしょうがないことです。
限られた人生の中で一人で全ての果実は味わい尽くせません。
ですから周りにいる人々が様々な行動の果てに手に入れた果実を持ち寄って分かちあってくれることを楽しめるのはありがたいことです。

それでいい。

― ってつぶやいたり、大きい声で言ってみて
心の中から何か反論が聴こえてきたら
それを眺めてみよう。
ひたすらにそれを眺め続けることが自己や他者と向き合うことになっていく。
眺めきれなくなったらそれを自覚して進めばいい。
それはそれでその時の必要があるのだろう。