少し前から昔の事を4,5年区切りで見つめている。
0から4歳、~8歳とかの感じで週ごとにその単位で思い出したり
ノートに書き出したりしています。

記憶の上澄みに浮かぶものを手掛かりに思い出していくと
様々な事が引きずりあげられて思い出してくる。
その時の状況や景色が映像や熱量を帯びて浮かび上がってきます。

そして、その映像に入り込むとそこから見出される可能性が
驚くほど豊かである事に気づかされます。
今見るその時はその時点ではその状況がもつ可能性の内の僅かことしか
捉えられていなかった事に気づき恥ずかしくなります。
また、その視野の狭さゆえに発揮していただろう突破力や一途さ
集中的なエネルギーに目がくらんだりもします。

例えば―と書きたいがその無限の可能性を描くためには様々な状況説明が必要になってくる、情報を限ればその情報の中での可能性に限られていきます。
焦点をしぼって書くのは正解だと思うが、それは書きたいことから
逆算して要素を書いていく事になってしまいます。

起こったことは起こったこととしての過去ですが
そこには今も無限の可能性が存在しています。
実はそうだったかもしれない、実はこうかもしれない
実はなんてどうでもよく、このように捉えたら心が温まる状況に見える、
そんなことが沢山あります。
そういった計り知れなさは今も未来も過去も変わらりません。
何かをこうだとか、こうだったとか思い込んでいるだけ
勿体ないのかもしれません。」

何かを論理立てて語ろうとすればそこにはある種の
条件設定が必要となってきます、その設定された条件の世界、
一種の虚構が論を研ぎ澄ませてくれます。

その研ぎ澄まされた論は時に現実に強い影響を与えます。
人が創作物を好むのはそういった人の性質だからかもしれません。
我々が常に可能性の一部のみ選択している故に
認識された現実は虚構でもあるからです。

未来に希望の眼差しを向け、様々な可能性を模索できます。
未来という限られた時間を意識して可能性を排除することもあります。
過去を固定されたものと捉えることもできます。
過去の一瞬一瞬がもつ可能性に目をむけることも可能です。
選選択肢は常に多くあります。
その選択を実行し得るのは常に今というこの瞬間だけなのは
当たり前すぎる結論かもしれません。

結論から逆算していくのも
可能性を常に見出し整えていく事も選択可能で、
それが出来るのもヒトが持つ虚構を作り出す
能力故かもしれない。

その人が作っている虚構が魅力的だったり
退屈で凡庸だったりするかもしれません。
その人を楽しむとはその虚構の内外を楽しむことかもしれません。
選んだことと選ばなかったことは同時にそこにあります。

最後に話は関係ない事を一つ、
エンデの「はてしない物語」を読まないのは
ちょっと勿体ないと思っている一人です。
何せ本が本であることに向き合った本ですから。
少し厚い本ですが8時間程度で読めると思います。