レッスン時に何か新しい事をやろうかというと
抵抗してぐずる人がいます。
何かに対して受け取り拒否をするのは
人間の性質の一つです。

時に一生懸命受け取らずに済むように言葉や手管を駆使してそれを
実現させて満足している様を見ると面白いなと思います。
受け取らない事もその人にとっては達成であり
必要な時間稼ぎなのだと思います。

また、その受け取り拒否の儀式を一通りするとスッとスイッチが入って
目に力が宿って集中力がぐっと深まり黙々と練習しだす人もいます。
ふと見ると大粒の涙を流しながら黙々と弾き続ける子もいたりします。
皆、ややこしい自分が居てそれをやりくりしながら
各々の何かに向かって言っているのだなぁと思います。
皆さんそれを繰り返しながら段々と深まっていきます。
そんな在りようや変化と向き合っていられるのが毎日レッスンを
していても飽きない要因かもしれません。

さてさて、
私は大概何かを始めるときにその関連の同じような内容の本を3冊ぐらい買ってきて読みます。
それが役に立つかというとほぼ役に立つことはありません。
頭は賢くなった気がして語る言葉は増えますがその言葉に大した力はなく
実際起こせる事柄も特別変化はありません。
それは分かっていますが自分がそこに向かっていくためのチューニングというか
一種の儀式みたいなものだと思って買って読むという行動をします。
私流の行動を起こす前のぐずりかもしれません。

では実際どうやって身に着けていくかというと
あぁでもない、こうでもない、何か違うと総当たり覚悟で
いじり倒してこねくり回してリトライを繰り返していきます。

かつてはその繰り返しに苛立ったり自信を失う事もありましたが
今はそういうモノだと思って淡々と繰り返せるようになりました。

出来もしない事が分かるはずもないので
頭をあれこれ使って取り組むこともなくなりました。
思考を追いかけないというのは頭を使う上で大切な技術です。
頭があれこれ拵えて言ってきますが無視します。
自分の無能を叫ぶ声も聞こえますが放っておきます。

頭で取り組まなくなったら根気が出てきます。
何度も何度も新しい触れ方を試してみることは物事を生み出し
発見する上で大切で楽しい事となってきます。
新しい触れ方が出来るまで間を取りながら何度もトライします。
違う、違うだけが分かっている事です。
それを何度もやっているうちに現れてくるものに少し変化が
認められるようになってきます。
それを冷静に見つめなるべく見落とさずに育てていくことが肝要です。

大切なのは「何か違う」という自分の感覚からくる声です。
その声に対して、じゃぁお前が納得できる何かが出てくるまで付き合ってやろうという
別の自分がいます。
そんなの別にいいじゃないかという方の自分を採用する選択も
確かにあります。
ただ自分が自分に付き合う事の程度に合わせて自分と付き合ってくれる
人が現れると思います。
様々な事を誰かに理解してほしい、認めてほしいと求めるのは人情ですが
その為にはとことん自分に付き合ってやる自分がいることが大切です。


そうこうしているうちに良い方法を発見するものです。
最初には思いもしなかったアプローチがあったことに気が付いたり、
時に何度も試したはずの方法なのに以前には無かった
何がしかの魅力が宿てくることもあります。
そういった事は複雑すぎるので理解しきれる事ではありません。
ただ、そういった事の現れからそれが現れるだけの自分が出来てきたという事が認められます。

そうなって始めてその事に関することが人に示されていたり
本のどこかに書いてあったことを思い出し結びつきます。
大概の事はすでに知られていてしっかり書かれています。
それに気がつかない自分が居た事に気づけることは恥ずかしい事ではなくなって
只々嬉しい事だったりします。

私たちはぐずったり、迷ったりしながら、何かチューニングを
しているのでしょう。
入出力の時差の中で淡い感覚を頼りに何かに触れ捕まえます。
そうやって身につけていくのだと思います。

ぐずり等の儀式は自分に馴染ませたり時間を確保するための必要からの
行動なのでしょう。それは誠に愛らしい動作です。